第一部 自分の過去を知る
step3 私の家族に何が起こっていたか


自分の家族をふりかえる

機能不全家族チェックリスト

身体的な虐待があった

私の母は感情の起伏が激しかった
食事の作法が厳しくて
姿勢が悪い私は
背中に竹の物差しを入れられた。
たびたびその竹の物差しで
叩かれた

物差しは本来の役目よりも
私の折檻の道具になっていた。

正座をしていないと
足をビシィッと叩かれた

”やいと”と言って
手の甲にタバコの火を押し付けられた。
銭湯でよそのおばさんに
「どうしたの?」
ときかれても
本当のことを言えなかった。

「自分でマッチをいじってて
やけどしたんでしょ!」
母を見るととても怖い顔をしている。

「そうでしょ!!」
仕方なくうなずく

おばさんは
「マッチの火で
こんなになるわけ無いじゃない
女の子の手にこんな痕をつけて
かわいそうに」

そういってくれたが
帰ってから
「お前が早く答えないから
嫌なことを言われたじゃないか
素はと言えばお前が
悪いことをしたからだろ!!」

ひっぱたかれるのがオチだった
どんな悪いことをしたのか
思い出せない

タバコの火と
怖い顔
泣いていた私が
まるでスクリーンに
映っているように見える
痛みなどは
不思議に覚えていない。

母は父に止められても
やめることは無かった。

飼っている犬を
面倒を見ないからと言って
保健所に連れて行かれた

保健所のことは
なぜか知っていて
生きている犬を
石に叩きつけて殺すって

胸が苦しくなる今でも

野犬狩りの車が来た
近所の捨て犬を
捕獲していた

針金を束ねたもので
投げ縄のように首を絞める
犬は叫びながら捕獲される

私達子供は
「犬ちゃん!早く逃げて!
おじさん!!犬を捕まえないで!」
叫んでいた

今でも焼きついている光景

間違った動物の飼い方で
凍死した犬もいた。

えさを満足に与えてもらえなくて
商店の品物を取って
店主から怒られて
母に言ったが

「犬は人間の残り物でいいの
お腹が空けば
自分でとってくるものなの」

そういって取り合ってもらえなかった

動物は自分でお腹が空けば
何とかするもなんだと思っていて

十姉妹を飼っていたとき
えさ入れを見ると
穀類の殻がたくさんあったので
あげなくても良いのかと思い
餓死させたこともある。

今思えば
ちゃんとした飼い方をしていたら
育てることができた
動物達がたくさんいたと思う。

そのことが一番心が痛む。

もう嫌だよ
わたしは普通に生きたいんだよ
何かしてもらったら
何かしなければならない生活は
嫌なんだよ

わ た し を た す け て


自分の家族を振り返る
性的な虐待があった


虐待と言って良いのかどうかはわからないが
小さいときの私はいつも父と一緒の布団で寝ていた
父は私のショーツから手を入れて
すべすべの子供の性器を撫でていた
私は睡眠儀式として
その行為に安らぎを感じていた。

小学高学年のころいとこが亡くなって
父だけが住んでいた所に残り
私と母、妹は叔母の近くで住むことになる。

中学校のときに
父が音信普通になって
消息を絶ってから
私は伯母の家で暮らすことになる。

伯母から家で暮らすことの色々な事を
教しえてもらっていたとき
トイレの使い方のときにも
小父が付いてきて
恥ずかしいとは別の
嫌な感じを持った。

そのときはすでに初潮を
むかえていた。

小父は私が着替えるとき
目を凝らすように見ていて
私が小父を見ると
澄ましたように目をそむけた

トイレに入っているときも
知らなかったフリをして
戸をあけられたときもあった
とても不愉快で胸がむかつく

いやらしい視線はいつも
粘りついて
とっても不快だった。

しかも当時は混浴で
思春期の私はとても嫌な気持ちだった。

19のとき伯父の家で暮らしていたが
そのとき伯父から処女を奪われた。
その行為は陰湿な小母からの虐待に
絶えられず
自殺未遂を起こして
実家に帰るまで続いた。

精神的、感情的、言語的な虐待があった

記憶が断片的に抜けているので
覚えていないところが多い

ただ、私は周囲の人たちとは
何をしても劣っていたため
母の機嫌はいつも悪かった。

妹がいたが妹のほうが
同じ年代の子と比べると
劣るところがなかったために

事あるごとに
比べられていたと思う

とにかく、私は何をやってもだめな人間なんだ
何をしてもうまくいかないということを
すり込まれていた。

大きくなるにつれて
暗い、言葉の少ない人間になっていった。



自分の過去を知る
家庭の不和があった


具体的なことは良くわからないが
母と父はよく離婚をしてはまた籍を入れると気宇事を
繰り返していた。

祖母や義理の伯母とも
折り合いが悪かったような気がする。


怒りの爆発が良く起こっていた
いつ怒りが爆発するかと
恐れていた。


母は自分の立場が危うくなると
半狂乱のようになって
言葉でも攻撃をしていた
それは相手が誰であっても
諍いがあったために

遊園地などの楽しいときは
このときだけは母の機嫌が
悪くなることが無いようにと
願っていたが
何かしらの事でその願いは
いつもかなうことは無かった。


愛の無い冷たい家庭だった

もっともな愛情の放棄は
離婚して誰かのところに預けられていたことだと思う
それが何回起こったのか
いつごろ起こったのかは覚えていない。

母は何にでもほかの子供と劣っている
私を気にかけていたが、
私に愛情をかけることは
無かったように思う

それだけ私は学業においても
発達においても劣っていた。


人格を否定するような雑言
怒鳴り声が飛び交っていた。


どんなときでも話し合いにならなくて
良く母は誰とでも大きな声で
けんかをしていたように思う。

私には「どうせあんたはだめなんだから」
「どうしてほかの子供のようにできないのかねぇ」
「私が学校に行くと恥ずかしいよ」

私は授業参観で母が来ると
張り切って授業を受けていたが
どんな場面でも
ほめられることは決してなかった。


威しがあった

「ひどい目にあわせるよ」
は、たびたび聞いていたことだった。

実際ひどい目にあわされた

妹が母が選んだ服を着なかったとき
裸で外に放り出された。

妹は泣き叫んでいたけど
私にはどうすることもできなかった。

あとで母が
「○○はあんたが怒られているとき
母ちゃんに泣いてとめていただろう
何であんたは妹が怒られているとき
止めないんだ」

母は私が止めたらやめるような意味合いで
言っていた。

母も激情する感情を
止めてもらいたかったのかもしれない
それも父ではなく私ならば
プライドが保たれるのであったのだろう。

「子供が止めるから仕方が無くやめた」と

しかし、私には怒りの矛先がこちらに来ることは
日常だったのでとめることはできなかった。

そのことは今でも罪悪感、後悔として残っている。

他人や兄弟姉妹といつも比べられていた。

学校の先生や他人、親戚などから
「妹は良くできるのに
お姉ちゃんのほうは出来が良くないね」
といわれて母は人に負けたくなかったから
私を叱責していた。

勉強を教えても
出来が悪い私は
児童相談所に行かされたこともある。

親の思い通りになるように
コントロールされた


勉強ができない私は
書道や絵画など習いに行かされていた
集中力の無い私はそれさえも
最後まで続けることはできなかった。

どこに行ってもお行儀の良い子
かわいくておとなしい子
それが自分だと思っていた
まさか母がコントロールしていると思わなかった
それに気がついたのはこの作業をしだしてからだ。

親の期待が大きすぎる家

期待などされなかった私は
学芸会などで
がんばったが
一回として
よくがんばったねとか
よくできていたよなどど
言われたことが無かった

近くの家が火事になったとき私が小学六年生
くらいのときであっただろうか
無事に鎮火したとき
「○○ちゃんはちゃんと着替えて
親の分まで用意して非難したのにこの子は(私)
火事だというのに浮かれるばかりで
役にも立たない子だよ」

火事というものが悲惨なものだとは知らなくて
夜中にみんなで騒いで
野次馬の中には笑っている人もいたので
大変なものなんだということをはじめて知った

顔や姿かたちについてからかわれたり
馬鹿にされたりした。


とても嫌な記憶で
私は小さくて幼かったので
かわいいと言われていた。

小学5年くらいのとき
初潮が始まって
処理の仕方を教えてくれたとき
「こんなに小さいのに
体の中だけはませていて」
そのなような言葉をかけられて

体だけが早熟な私は
いやらしい人間なんだというように
思った。

そのことを周囲にも
言わないでもらいたかったのに
喋りまくして。

とても嫌な気持ちだった
恥毛が少し生えてきたとき
私は自分で体を洗いたかったのに
母は無理やり体を洗い

恥毛を触りながら
笑って「この子の毛もう生えているよ」
というようにからかい半分で
とっても嫌だった
恥ずかしいのに人にまでさらけ出して
とっても嫌だったけど
言えなかった。

自分の存在を否定された

存在そのものが
疎ましかったのか知らないが
私は伯母のところで生活をしていた。

伯母は事あるごとに
母の悪口を言って
私に母のことを
嫌わせようなことを言い含めていた

卒業式も成人式も大切な行事のときは
いつも母はいなかった
伯母が付き添っていた

成人式のときストールを
買ってもらってうれしかったが
それも伯母が言ってやっと買ってもらい
お金をもらって
伯母と二人で買いに行ったように思う。

私のうちでは祖母がアルコール依存症で
いつも母達と口げんかが絶えず
酔ってはひっくり返って寝ていた。

当時は「かくうち」と言って
お酒屋さんで、何杯かお酒を飲んでは
母達に絡んでいた。

しかし、私にはいい
おばあちゃんだった気がする。

母達が祖母を大事にしているのを見たことが無い
いつの間にか祖母は病院に入れられて
私は仕事の合間などに
甘いものを買って
お見舞いに行っていた。

家の中のルールに一貫性が無かった

ルールよりも母はいなかった。

あるとき知らない小父さんと母は
再婚をしたが
うまくいかずに離婚する。

正式に籍を入れなかったようだが
私達姉妹は親戚だけの集まりの
結婚披露宴で花束の贈呈をしたが

この小父さんも母の伴侶にはなれないだろうと
おぼろげに思い
花束をあげるときも
笑顔を作るのに嫌な思いをしたような
記憶がある





機能不全家族